最終更新時刻:2009年1月9日(金) 23時48分

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平野氏からのコメントへの返信

公開日時:
2006/05/12 21:08
著者:
kenn

ぬおっ、前回のポストに平野本人がとうとう降臨!(当該コメントはこちら

というわけで、滅多なことではネットに出没しない珍種。。。じゃなくてネ申をあんな狭いコメント欄に閉じ込めておくのはあまりにバチあたりなので、メインのブログでピックアップすることにします。

以下、いつもの個人的なメールのやりとりのような調子で書きます。今これを読んでる皆さんは私信をのぞき見してるんだよということで、そこんとこよろしく。

どうも、感想ありがとう。
メールでも書こうかと思ったけど、せっかくなんで、ここにコメントを書くことにしました。
梅田さんとの対談は、ご覧の通りで、個人的には非常に有意義でした。
僕は必ずしも、必要以上にネット社会をネガティヴに捉えているわけじゃないけど、対談だから、まぁ、ある程度、争点を鮮明にした方がいいからね。取り分け、ネットの明るい未来については、梅田さんがかなり強い態度で肯定的に語っているので、僕としては、どっちかというと、問題点を強調する立場に終始しました。

それにしても、今回のコメント読んで改めて思ったけど、肩の力の抜けた編集されてない生の平野のコメントって、ものすごい洞察力とみなぎるドライブ感が最高に気持ちいいのね。てめーもブログ書けよ、こんな言葉を揮発させてしまうなんてもったいねー。(笑)

よく分かってるとは思うけど、なんと言っても僕は作家なので、やっぱりどうしても、「有益」性という観点から一元的に物事を見られないんです。梅田さんの分類で言うと、ネット社会の三層ほどに分かれるであろう言説の階層の最下層というのは、「有益」性という意味では、無視されてしかるべきものとして、つまり「ないもの」として処理されるわけだし、「無益」どころかしばしば「有害」なわけだから、抑圧されるべきものなんだろうけど、僕はその三層は別々の人間たちがそれぞれに担っているわけじゃなくて、どんな人間の中にも内在している階層なんだと思う。そのどの部分で人とコミュニケイトしているか、したいと思うか、出来るか、ということなんじゃないかな。

うん、わかる。そういう意味では逆も真なりで、梅田さんとか、俺もそうだけど、ビジネスで勝負してる人間からすると、色々あれこれ考えるところはあるけれど、最後には「結局ビジネスで勝てなきゃしょーがねーじゃん」っていうポジショントークになっちゃうわけ。

それでもなお、そういった一元的な価値軸からこぼれ落ちてしまう人たちの存在が気になって気になってしょうがない、というか、それはある意味で過去の自分自身みたいな存在っていうことなんだろうけど、そういう人たちを救いたいという気持ちがどこかにあるから、こんなブログでも書くモチベーションになってるんだろーな。

だから、俺なんかが援護射撃を贈りたい対象っていうのは、たとえば「ひきこもり」だったり「ゲーム脳」なんて言われちゃってる人たちだったり「ニート」だったりするわけ。いわゆる、社会のメインストリームを涼しい顔で歩いてる人たちからは理解されない被差別者たち。それは、今のようにヲタが市民権を得ていない頃に抑圧を受けたヲタだったという過去を自分の中に抱えているからだし、そういう憤りを携えているからこそ、真面目なビジネスマンという読者層がそこそこ厚いであろうこのブログで敢えてそういう挑発をやることに意味があると信じてる。

そもそもビジネスっていうのは消費者あってナンボなんだから、現代における消費者像ってものをうっかりセグメンテーションとかポートフォリオとか言っちゃって個々の顔が見えない集合へと分類してしまって、そんな一面的にしか理解できなくてどうしますか!っていう話なんで、実はビジネスっていうのも作家的な社会の認識フレームとは循環したところで一致しているのかもね。

社会の変容に対して反動的な、保守的な立場からものを言うことはイージーだし、その手の本はバカウケしてるけど、僕は嫌悪しています。だけど、ある人たちが、端から見れば「無益」であり、「有害」であるとしか思えないような言葉を通じてしか、人とコミュニケイトできないところに落ち込んでいるという状況に対しては、たとえ彼らの言葉が、時にどんなに僕個人に対して敵対的であったとしても、やっぱり捨て置けないという気持ちがやっぱりあります。これはキレイ事じゃなくてね。

江島もそうだけど、僕はオウム事件があったときに、京大にもかなりの信者がいたという事実に結構ショックを受けて、その時にも同じようなことを考えました。つまり、自分とは関係のない連中のことだと無視するか、自分の問題として引き受けるか。で、僕かは必ずしも義務感からというわけではなく(なにせ、「日蝕」みたいな小説を書いてたんだから)、その問題を同世代の人間として、自分のこととして真面目に考えたいと思いました。

これは平野の書いたものを読んでると、ヒシヒシと感じるよ。

俺は、誰かが書いた本なり文章なりを読むときに、その背景にある著者の動機みたいなものを読み解いてみることが大切だと思ってるんだけど、平野の書いたものを読むときはいつも、なんだこいつ見かけによらず真面目だなーといつも思うもん。(笑)

でも、文壇っていうギョーカイで若くして成功してしまったことは、もしかしてちょっと可哀想な境遇なのかも知れない、と思うことが、たまーにあるのね。いや、別にジェラシーとかじゃなくてよ。。。マジで。だって、あまりにもレベルの低い周囲との戦いを余儀なくされてるじゃん。あ、こんなこと言っちゃっていいんだっけかな。。。まぁいいや。

それに、周りの人たちもやっぱ「セレブな大作家先生」っていう目で見てしまうだろうから、自分で自分を見失わないように自己点検するのに必要な努力というかハードルってすげー上がるんだろうなーと思うのね。まぁ、そういう有名人っていう立場になったことがないからあくまで想像なんだけど。(笑)

でも、今回のコメントを読んで、平野が何かを書くときには常に自己に対して切実な問いを問う、という真摯なスタンスを死守してるんだなっていうことを再確認して、あぁやっぱりコイツはすげーな、と思ったですよ。

ネットの世界の概観に関しては、僕も梅田さんも、大して見えている風景は違わないと思う。江島が、社会の鏡像をそこに見ているのも、ある程度、正しいと思う。「最後の変身」では、ネットも結局、社会だからこそ、主人公は失敗することになるわけだから。だから、あとはまぁ、その見えている世界に対するアプローチと役割の違いだけじゃないかなと対談をしていてつくづく思いました。僕は別に、社会の「進化」(しかし、「勝ち組」、「負け組」という例のお粗末な社会ダーウィニズム的な発想と同様、この19世紀的な言葉の今日における生々しい強度は一体何なんだろう?)の足を引っ張ろうとしているわけでもなんでもないし、シニカルに言えば、そんなことが出来るとも思っていない。だけどどう考えても、その単純なイデオロギーが、社会の複雑さをあまねくカヴァー出来るわけないんだし、要するに視点を複数化したいというそれだけのことなんです。

そうなんだろうね。で、大筋では理解した上で、ちょっと細かいところに突っ込むけど、「勝ち組」とか「負け組」とかっていうような、あまりにもあからさまにポピュリズムな世界の言説に心奪われてしまう心境がよくわかんないんだよね。橋本大也さんメタ→ネタ→ベタ→ヲタっていうオモロすぎな区分を提唱してるけど、なんかネタにベタで噛みついちゃってるような場違い感というか、女子高生を説教するのにヘーゲルが云々とか言っちゃってるような、というか。

なんて、真摯なベタをメタで切り返してしまうような物言いはズルすぎるか。

言葉を改めると、「勝ち組」だの「負け組」だのっていう世界は、たぶん平野みたいな「知的な深み」で届ける言説ではグサリとアプローチできない空間なんだと思う。そもそもが浅いから、そのへんに対する「怒り」は、きっと報われないだろうな、と思うわけ。いみじくもまさに平野が言及してる社会ダーウィニズムみたいに、人の生死に関わる次元の切実さをともなうとか、権力の暴走が予期されるとかいう話ならば、まったく話は別だけど。

たとえばグーグルっていう、どうしようもなくナイーブな技術ファンダメンタリストがもたらす不安にしたって、俺はどちらかというとその権力性について倫理的な立場から警鐘を鳴らしてるほうの人間だと思ってはいるけれど、実は口に出しているほど心配はしてないのね。

この業界ではモナークが治世できる期間が極端に短くて、そういう絶対的な権力を誇って横暴の限りを尽くすかのように恐れられていた企業が、その横溢するパワーをいよいよ発動しようかという頃になってたちどころに失脚してしまうという事例には枚挙にいとまがなくてね。たとえば、IBMがマイクロソフトに取って代わられ、マイクロソフトがグーグルに取って代わられつつあるという栄枯盛衰が、たった10年の間に起きているように。ドッグイヤーっていうのはメタファーじゃなくて現実だよ。

さらにいえば、単に歴史からの演繹というだけでなくて、見る人が見りゃグーグルの弱点なんてもはや明け透けなわけで。ソフトウェアなんて、ハッカーが熱に浮かされたようにコード書いて、書きながらプロダクトと一緒に人間的に成長するというプロセスにこそ魔法仕掛けのケミストリーがあるわけで。きらびやかな「過去の」経歴を持った「あがっちゃった人」やPh.D持ってるやつばっかり採用してて(今もやってんのかな?)、そんなん、まるでアテにならないなんてこと、ハッカーだったらみんな知ってると思うんだけどね。そういう意味では、在野のハッカーに光を当ててラブコールを送り続けてきたマイクロソフトのフレキシブルなカルチャーのほうが筋がいい。

もちろんグーグルにはとんでもなく優秀なのもいるけれど、あの規模になれば宿命的に9割は凡人だし、定義により、デカくなった会社はデカくなったというただそれだけで、すでにディスアドバンテージを抱えてるからね。あんな鈍亀に踏まれることを恐れてるベンチャーなんて、世間で言われてるグーグル像をそのまんま信じてるようなベンチャーなんて、申し訳ないけど、そもそも自分の頭で物事を考える訓練が足らんだけちゃうかと思う。アテンション・エコノミーについて書いたときには、早くも「グーグルに見えない世界が水面下で広がりつつあるよ」って、次の10年に起きる新しい革命の萌芽を暗に指摘したつもりだったんだけど、誰もそういう読み方をしてくれなかった。(笑)

えーと、話が随分と逸れたけど、よーするに今の日本は真に切実なる問題設定が準備されていない、メタとネタとベタとヲタで満たされている、至って平和な世界だってことよ(笑)。もしかしたら、すごく残念なことなのかも知れないけどね。

梅田さんが、もともと「ウェブ進化論」を書いて、人々がそれに快哉を叫んだのは、日本のネットに関するジャーナリスティックなジメッとした言説空間に、別の新しい光が差し込んだと感じたからだと思うけど、それで今度は、そっちの方に一気に針が振れるのであれば、同じ間違いだと思う。今回の対談で示した通り、身も蓋もない言い方だけど、ネットの世界にはどっちの現実もあるし、もっと別の見方もあるでしょう。その複数の観点に常に跨っていることはスッキリしないことだけど、それ以外にはないと思う。その「複数性」というのが、ここ数年の僕の創作の根幹だけど、「何がしたいか分からない」という一言で片づけられることも多くて、まぁ、なかなか難しいもんです。だけど、この作家は何時もこういう作品を書いていて、だからこういう人間なんだという、そういう怠惰で、粗雑な人間理解の枠組みに自分を落とし込んで、何が読書の楽しみなんだろうと僕は思う。そこには厳密な意味で他者は存在しなくて、単に自己の鏡像があるだけじゃないのかなと思います。

「その複数の観点に常に跨っていることはスッキリしないことだけど、それ以外にはないと思う。」

このコトバにすんごく勇気づけられた。

なんか、「公平性」を称しつつ、どっちつかずで両論併記してしまうような自分のスタイルについて、実は「これって、批判を恐れての先回り、牽制、逃げ、頭がいいフリをしたいだけ、なんじゃないのか?」って結構悩んでいたこともあるんだけど、それでいいんだよ、って背中を押してもらった気がした。胸の奥につっかえていたものが、ホロホロと溶けていった。。。

江島が「ネットは社会」だというのは、よく分かるけど、でも、厳密に言えば「近似だ」くらいでしょう?ボディ・コンタクトがないこと一つとっても、大きな違いなんだから。その差異にフォーカスするかどうかだけど、しかし、どんな時だって、差異にフォーカスしなければ、両者の正確な姿はつかめないし、何が今、新しく起こりつつあるのか、分からないんじゃないかな。

うっ!なるほど、これは鋭いな。。。「同じである」ということよりも、「同じである」と言い切ってしまうことでこぼれ落ちてしまう「差異」の機微にこそフォーカスするべきだ、というのはその通りやね。

そしてご指摘通り、ネットについて追い込んだ議論をすると、いつも最後には身体性の問題へと行き着いてしまう。。。ここから先は、俺自身にもよくわからない。ただ、ネット以前にはまったくもって体験したことのない、第六感というのか、脳の違う部分が感覚器官として反応しているような不安な快感というのはあるのだけれど。

あ、だから「顔のない裸体たち」読めってか。(笑)

俺は、もしかしたら、「ネットもリアルも同じだ」というビッグピクチャーを伝えたいあまり、抽象度を上げすぎていたのかも。これは、こうやって指摘されなかったら気付くことはなかっただろうなぁ。。。ありがと。

僕はネットが主体を二分しつつあるというモデルに固執しているけれど、これは僕自身の今の世界観じゃなくて、そうした一種の思想的な退行が社会に見られることへの危惧の表明なんです。「見かけ」と「本質」というのは、ソクラテス派以来の問題設定だけど、二十世紀の形而上学批判を経て、僕らの時代には、もう「本質」という言葉は不可能だ、というところまで来ていたはずでしょう? ところが社会では、恐ろしいほどに、今、「本当の」という言葉が氾濫している。「本当の自分」、「本当の幸福」、「本当の社会」…。僕は、これがどうしても気になるんです。

僕が文学に興味を持つようになったのは、三島や初期のトーマス・マンあたりからだけど、それは、彼らの描く内面と外面、芸術家(犯罪者)と市民社会、というまさしく二元論的な図式が、当時の僕には非常に切実に感じられたからです。

それでもなお、だからこそ、「本質」は(それ自体が希求される対象として)「チカラ」をもたらすもの、として存在するものだとは考えられない?

たとえば「本当の自分」ということでいえば、アイデンティティ・クライシスっていうのは、逆説的だけど、アイデンティティというイデアを、つまり不可能なものを求めるからこそ、その緊張感のはざまで生まれる苦しみなのであって、そこを「不可能だ」と諦めてしまった態度からは決して生まれ得ないものなのだろうと思う。

だから実際、歴史を俯瞰したあとに現在はどうだろうと振り返ってみたところで、ちょっとずるいけどメタな次元で冷静に検討してみれば、退行が起きてるというような実感は特になくて、手垢にまみれたクリシェなテーゼだよね、という受け止め方しかできない。

カリフォルニアのピーカンな空のようなアポロンがいれば2ちゃんねるのようなディオニュソスも潜んでいて、ヘラクレイトスが「万物は流転する」といえばパルメニデスが「たしかに変化しない実在だけが存在である」って噛みついて、プラトンが天空を指させばアリストテレスが大地を指さしたように。

だから、たかがニーチェが近代になって「神は死んだ」といったところで、この「見かけ」と「本質」の対立に一方的な決着がついたわけではないし、数学者だったラッセルが後期には活動家に転じたように、あるいはウィトゲンシュタインでさえ後期には自ら生み出した論考のスタイルを否定する側に回ってみせたように、同一人物ですら一貫した立場をとることが難しいテーゼであるはず。

だから、ネットの世界がその二項対立をより先鋭化させるという側面は事実としてあるだろうけど、必ずしも「本当の××」という「本質」だけがことさら強調され優位に立つ世の中になってしまっている、というわけじゃないように思う。これは俺の個人的な実感だけどね。

ただまぁ、抽象論ぶってりゃいいだけの哲学者と違って、作家というのはある時点で思い切ってどちらかの視点に立つリスクを冒さねば、リアルな手触りのある迫真の作品を書けないだろうから、これはこれでいいことなんだろうな。

江島は、僕のことを個人的に知っているから、何となく想像できると思うけど、僕は必ずしも社交的ではないけど、割とそつなく人と交われる方で、それは十代からあんまり変わってないんです。だけど、中学、高校時代と、僕はずっと、今の言葉で言えば、敏感に「場の空気を読んで」、うまく人とコミュニケイト出来る一方で、自分の中には、そんなスムーズな対人関係には収まりきれない、いろんなろくでもない考えや、役にも立たない思いが満ちあふれていると常に感じていました。社会的に有用である、ということに、どうしても自分のアイデンティティを全的に賭することが出来なかった。そのろくでもないようなものの一抱えすべてが自分だと感じていたし、それをやっぱり表現したかった。それがまぁ、作家になった一番の動機です。

それで、僕は今、小説を書いていて、本当によかったと思う。僕は、親類や友人を含め、小説を通じて、初めて自分という人間を、十分に理解されつつある気がします。注意深くあえて書けば、それは「本当の自分」なんかじゃなくて、要するに、自分という一個の人間の複雑な組成、「複数性」を理解されつつあるという感動です。それで僕のことをもっと好きになる人もいれば、嫌いになる人もいるだろうけど、それは納得のいく好き嫌いで、自分の様々な面を抑圧しながら人に好かれるよりはずっといいと思う。僕はやっぱり、意識の有無に拘わらず、「普通の人」として社会的な人間関係に自分を結びつけるために、その多くの部分を日常のコミュニケイションから削ぎ落としていたと思う。今はその部分の存在を、僕も相手も、一種の前提としてコミュニケイト出来ています。

これまでにも平野の書いたものやインタビューは結構読んできてたつもりだけど、この2パラグラフはとりわけ最高に響いたね、ちくしょう。

俺の中にあったもろもろのモヤモヤが、なんか、フッと軽くなったじゃないの。

「そのろくでもないようなものの一抱えすべてが自分」ちくしょう。

「それで僕のことをもっと好きになる人もいれば、嫌いになる人もいるだろうけど、それは納得のいく好き嫌いで、自分の様々な面を抑圧しながら人に好かれるよりはずっといいと思う。」ちくしょうちくしょう。悔しいけど平野萌え。(笑)

これ、もっとたくさんの人に読んで欲しいなぁ。ホント。

だからこそ、僕は今、ブログの匿名性を、一種の「自己嫌悪的な」執拗さで批判しているんです。そうして自分を、社会的な自己と、ネット上の自己とに分けて、しかも、後者をこそ、誰にも気兼ねなく、今日会った人の陰口だのなんだのを好きなように言える「本当の自分」だと考えるような生き方は、結果、日常の社会生活をますます希薄化させてゆき、他者からの理解を遠ざけてしまうんだと。

僕は、梅田さんが「有益な」ブログに注目するのと同じ程度の強い関心で、個人の身辺雑記的な「無益な」ブログに注目しています。それは、それらの言葉が、社会生活から排除されて、行き場を失った言葉の堆積場所だからです。それは、僕も含めた誰もが抱え込んでいるものでしょう。だったら、そういうブロガーの生き方を云々するんじゃなくて、それを強いる社会自体を批判すべきだと人は言うだろうし、最終的にはそういうことになるんだけど、しかし、漠然と社会を批判して、そこに巻き込まれている個人に非はないという語り方は、社会を絶対に変えないんだな、残念ながら。やっぱり、個人の生き方を問題にして、「だけど、それは社会がこうだからじゃないか!」と怒ってもらわないと、人は真剣に考えないものだと思う。だから、「登場人物」なる不思議なエレメントからなる、小説なんていうエクリチュールのジャンルがあるんだと思います。

なるほど。実は確信犯的な扇動家だったのね。(笑)

ただ、いつも気になってたんだけど、そこで「匿名性」そのものをダイレクトに槍玉に挙げるのはアプローチとしては得策ではないというか、少なくともミスリーディングだと思うよ。その反発エネルギーが社会に対して向かうのではなくて、平野に対して跳ね返ってきがちだから。なぜなら、匿名性ってのは常に弱者のためのものだから。それを、地位も名声も知性もある強い立場の人間から、「お前は卑怯だ、堂々と出てきて勝負しろ!」と表舞台に引きずり出そうとされてしまえば、そりゃフェアじゃないって思うのは自然なことやんか。そこは強い立場の人間の方が身を削って百歩譲ってあげるべきところなんちゃう?

アメリカでセキュリティ専門家としていい仕事をしているブルース・シュナイアーっていう人がいて、ちょっと前に「Anonymity Won't Kill the Internet」っていう面白い論考を書いてたんだけど、ようするに、匿名性というのはシステムに欠陥のある不完全な世界で弱者を守るために必要なバックアップ装置であって、問題とすべきは「Anonymity」ではなく「Accountability」だ、というわけね。このアカウンタビリティっていう言葉、日本語訳されると「説明責任」とかなっちゃって意味不明だけど、元々はアカウントっていうのは口座のことで、ようするにその口座(=記号と言い換えてもいい)を使ってあなたが行ってきた過去の行動の履歴はすべてその口座にひもづけて記録されていて、そういう歴史的コンテクストをあなた(の口座)は背負い込んでるんですよ、それを責任っていうんですよ、っていう意味なんだけど、裏を返せば、銀行の口座なんて理論上はいくらでも作ったり乗り換えたりできるわけだし、つまり人生の「一回性」と強く結びついてしまう「実名」とは違って、最低限やり直しができることが担保されている世界観なわけ。とはいえ、実際に口座をスイッチするとなると、それまでに口座に溜めた与信残高はリセットされちゃうわけで、せっかく長い期間かけてコツコツと貯めたものに対しては執着するようになるのが人情ってもんで、そういう執着心が実は責任というものを担保しているっていう、ある意味トートロジーなんだけど、そういう概念なわけじゃん。

だから、まさに新潮の対談でもペンネームに関する議論があったけど、たとえば舞城王太郎っていう記号は記号に過ぎないし、それが本名にどれぐらい似てるかなんて議論はナンセンスだし、でもその記号に対する読者の信頼もあれば、それに執着する作者というのもいて、だからこそ突然そのペンネームを捨てて来年から別の全く新しいペンネームで、いま舞城王太郎と呼ばれているところの人が書き始めるとは考えにくいでしょう?その記号の後ろにいる生身の人間というのは、実名という属性を含む確定記述の束ではなくて、まさに人間くさいふるまいをする人間そのものであって、そこは(変な言い方だけど)「信頼できる」と思うんだけよね。

まぁ、ここまで書いてみて「んなこたぁわかってて、敢えて言ってるんだろうなぁ」って思えてきたのでちょっと空しくなってきたけど。(笑)

そういう意味では、僕はもっと、梅田さんも言ってたみたいに、mixiとか、自分の周囲の友人知人にはブログの存在をdiscloseしている人たちについては、肯定的に語るべきだったと思います。彼らは、より深い人間関係を獲得していくんじゃないかな。僕にとってのネット社会の明るさは、そっちの方に開けている気がします。だけどそれは、厳密に言うと、匿名じゃないからね。僕が散々言っているように、それは主体が、日常の社会と連続してるんです。僕が問題にしているのは、あくまで、そこを切断しようとする傾向です。

で、ここが接地点かなぁという気がしてきた。

ブログでは文章が書けないけどmixiなら身近な人へ向けてハイ・コンテキストなメッセージだけを届けられるから、のびのびと書けてアウトプットが増える、っていうのは、まさにこれだよね。

アタッチメント理論でいうところのセキュアベースのようなものが、のびのびと脱抑制された自己表現には欠かせないということなのかな。俺の尊敬する茂木健一郎さんの表現を借りると、例えば、子供が新しいことにチャレンジするためには母親が「おまえは安全基地にいるんだよ」というメッセージをちゃんと与えてあげてはじめて、脳がリラックスしてフロー状態が生まれ、マジックが起きる、というような。たしか、モーツァルトがそうだった、みたいな話だったかな。そのセキュアベースを与えてくれるのは、自分の周囲の友人知人といった、ごく身近な存在なんだ、ということなのだろうね。そこではもはや匿名性なんてものは議論の俎上にすら乗らなくて、他者の目線を気にしない自己没入だけがある。そういう「孤独を楽しむ」世界なのかも知れんなぁ。

なんか、長くなってしまいました。
僕は何時も、不特定多数の人に向けて語ろうとする分、どうしても議論の力点が分散しがちだから、あえてまるで、私信のように書いてみました。
まぁ、そのうち、飲みにでも行きましょう。
「新潮」の次回もお楽しみに!
「顔のない裸体たち」も、enjoyしてくださいな(笑)

平野啓一郎

というわけで、非常にエキサイティングなやりとりをさせてもらいました。ありがとう。

ほな、また、近いうちにどこかで。

江島健太郎

♪ Miles Davis / 'Round Midnight

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。シーネットネットワークスジャパン および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。

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このエントリーへのコメント

3

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  hinter on 2007/10/24

2

どうも、なんか、大きく取り上げてもらって、ありがとう。せっかくなんで、あと半往復か、一往復くらいしますか。
例によって、私信のように。

>てめーもブログ書けよ、こんな言葉を揮発させてしま>うなんてもったいねー。(笑)

まぁ、ブログの有益さはよく分かるし、そもそもここに書き込みしようと思ったのも、梅田さんとの対談で啓発されるところがあったからなんで、そういう意味でもいい出会いだったけど、ただ、職業作家としての難しさはやっぱりあります。経済的に成り立つのかな、というのが一点と、やっぱり小説の強度は表現手段の増加に反比例するというような単純な懸念が僕にはあって、ブログで言いたいことを言って、それなりの理解を得ていると、何としてでも小説で伝えたいという切迫感が薄れるような気がする。理解の射程が違うから、問題にはならないかもしれないけど、当面は小説一点集中で力のある言葉を世に送り出したいという感じです。

さて、

>うん、わかる。そういう意味では逆も真なりで、梅田>さんとか、俺もそうだけど、ビジネスで勝負してる人>間からすると、色々あれこれ考えるところはあるけれ>ど、最後には「結局ビジネスで勝てなきゃしょーがね>ーじゃん」っていうポジショントークになっちゃうわ>け。

要するに、そういうことだろうね。
梅田さんとは、対談後、編集者を交えて食事をして、その時にも歓談したけど、前にも書いた通り、ネットの世界の概観については共通了解がある気がしました。もちろん、彼の方が遥かに深く色んなことを知ってるというのは言うまでもないけど。
その上で、あえて僕の立場から言えば、社会にとって一種の手触りとして、即座にその利益が実感できないような事柄について語る難しさというのをよく感じます。結局、そういう問題を扱うためのジャンルの棲み分けとして、ネットではなくて、小説の世界の方に踏みとどまろうとしているのかな。小説が日常に挿入するのは、1秒ごとに刻まれる生活の時間の目盛りとは別の、数十年、数百年単位の目盛りだと思います。「現在」というのは、常にそのどちらの目盛りの上にも立っているはずだけど、普段は前者しか見ないからね。

>だから、俺なんかが援護射撃を贈りたい対象っていう>のは、たとえば「ひきこもり」だったり「ゲーム脳」>なんて言われちゃってる人たちだったり「ニート」だ>ったりするわけ。いわゆる、社会のメインストリーム>を涼しい顔で歩いてる人たちからは理解されない被差>別者たち。

僕の中にも、それと近い気持ちはあります。というか、今の世の中に特に「生きにくさ」を感じてない人たちは、別にそれでいいと思う。皮肉でも何でもなくて、今感じている幸福感を大切にすべきだし、それはそれで、得難い貴重なことだと思います。小説というのは、やっぱり、社会との間にどうしても違和感を感じてしまう人たちのものだからね。モーリヤックが、「テレーズ・ディスケルウ」の冒頭で、「美しい秘密にみち、暗い秘密など心に持たぬ人間についてぼくは何もいうことができぬ。内に暗い秘密をもたぬ人間は語るべき何もないからだ」と言ってるのは、彼が言うとなんか抹香臭いかもしれないけど、小説家の誰もが感じていることじゃないですかね。
「ニート」にしたって、彼らを国家の「穀潰し」として、国家社会主義的に非難するだけでは足りなくて、一種、のっぺらぼう的な「不気味な」存在として語ろうとする傾向は、職業とアイデンティティの癒着が今以て強い日本独特の一種の症例だと思います。
「最後の変身」では、かなりがんばって、その辺のことを書いたんだけど。

>平野の書いたものを読むときはいつも、なんだこいつ>見かけによらず真面目だなーといつも思うもん。>(笑)

そりゃまぁ、お互い様ですから。
お互いに、言わぬが花の情けない過去も色々あるしね(笑)。

>でも、今回のコメントを読んで、平野が何かを書くと>きには常に自己に対して切実な問いを問う、という真>摯なスタンスを死守してるんだなっていうことを再確>認して、あぁやっぱりコイツはすげーな、と思ったで>すよ。

そういうことを感じてもらえたのは、うれしいです。それは、僕の創作に関して、一番人から理解されていない部分だろうな。

>「勝ち組」とか「負け組」とかっていうような、あま>りにもあからさまにポピュリズムな世界の言説に心奪>われてしまう心境がよくわかんないんだよね。

これは、江島の言っていることが正しいと思うけどね。というか、江島にそう見えるというのがよく分かる。多分、テレビのワイドショーみたいな言説空間には、僕の言葉は、ゼノンの矢のように(!)永遠に届かないんでしょう。だけど、やめません(笑)。
大多数の人は、江島が考えているほど、ネタとベタとを区別してないと思う。一方で、ネタをネタとして受容する「大人な」態度は、ジジェクがクンデラを批判するのと同じ話だと思う。共産主義体制が存続したのは、みんなが共産主義のイデオロギーを心から信じていたからではなくて、それを一種の「ネタ」としてシニカルに受け容れてたからで、体制側もそれをこそ期待していたという、例の話だけど。

>さらにいえば、単に歴史からの演繹というだけでなく>て、見る人が見りゃグーグルの弱点なんてもはや明け透けなわけで。

あ、ホントに(笑)。これに続く一連の話は、単純に蒙を啓かれた感じがした。バイアス分を差し引いたとしても(笑)。

>なんか、「公平性」を称しつつ、どっちつかずで両論>併記してしまうような自分のスタイルについて、実は>「これって、批判を恐れての先回り、牽制、逃げ、頭>がいいフリをしたいだけ、なんじゃないのか?」って>結構悩んでいたこともあるんだけど、それでいいんだ>よ、って背中を押してもらった気がした。胸の奥につ>っかえていたものが、ホロホロと溶けていった。。。

よく分かるけどね、その思いも。それは僕にもあります。極論の魅力って、やっぱりあるし、思いっきりアンフェアであることを百も承知で語られる言葉が時代を切り開くことは確かにあると思う。だけど、これはもう、気質の問題かな。僕はやっぱり、矛盾に止まり続ける居心地の悪さの方を、今の時代は選択すべきだと思う。その苦しみの中から、あえていずれかの結論に着地するということは必要だろうけど、最終的にそれを選んだことの「スッキリしない後味」はいつまでも自分の中に留めておくべきだと思うよ。

>ここから先は、俺自身にもよくわからない。ただ、ネ>ット以前にはまったくもって体験したことのない、第>六感というのか、脳の違う部分が感覚器官として反応>しているような不安な快感というのはあるのだけれ>ど。

なんか、宇宙に行ってニュータイプに覚醒するっていう、ガンダムみたいな話やな(笑)。まぁ、冗談です。

>あ、だから「顔のない裸体たち」読めってか。(笑)

そうそう。そこだね、結論は(笑)。

>それでもなお、だからこそ、「本質」は(それ自体が>希求される対象として)「チカラ」をもたらすもの、>として存在するものだとは考えられない?

それはね、僕にはやっぱり、ロマン主義から実存主義くらいまでの流れを反復することのように感じられる。ドラクロワのスピード感溢れるデッサンが象徴しているように、ロマン主義者たちは「無限」だとか、「崇高」だとかに向かう「運動」そのものに着目したけど、それが二十世紀前半には、「民族」とか、「国家」とか、「起源」とか、色んなところに着地(墜落)して、「運動」そのものが止まってしまった。それを批判的に受け継いで再活性化させたのが、サルトルの「出口ナシ」なんだと思う。その後、「本質」というのを仮想的にでも設定するのを止めて、「運動」だけを後に残そうというのが、今に至るまでの流れなんじゃないかな。
実は、そういった流れの中で、今、退行が起こっているというのは、クリシェどころか、誰も言わないヘンな議論なんだと個人的には思っています。みんな、ポストモダンのまっただ中だと感じているんだから。
僕が注目したのは、そこに、ITという予想外のコンディションが登場したせいで、一種の時間の歪みみたいなもんが生じているんじゃないかということです。僕が思想家でなくて作家であると言うことは、そこで起こっている、なんか、ゴチャゴチャッとした現実の混乱に目を凝らすことだと思っています。

ただ、パーソナリティというものが、自ずと立ち上って来るということについては、僕は信じています。ただそれは、アーレントが、それこそ「人間の条件」で書いているように、当人が明確には追求できないものだからね。「活動」は、他者からしか判断されないものだというのは、本当だと思う。

>なるほど。実は確信犯的な扇動家だったのね。(笑)

>ただ、いつも気になってたんだけど、そこで「匿名
>性」そのものをダイレクトに槍玉に挙げるのはアプロ>ーチとしては得策ではないというか、少なくともミス>リーディングだと思うよ。その反発エネルギーが社会>に対して向かうのではなくて、平野に対して跳ね返っ>てきがちだから。なぜなら、匿名性ってのは常に弱者>のためのものだから。

これはね、まったく核心をついたご忠告だと思います。それには、しかし、深い誤解があるんだな、やっぱり。
というのは、僕は、彼らに対して、勝手に共感を抱いているんです。そして、まさしく自分のこととして、「自己嫌悪的な」アプローチで批判してるんです。だけど、彼らにとって僕が、依然として、彼らとは異質なエスタブリッシュされた人間であって、何だか上からものを言われている感じという受け止め方をしているなら、それは単純に悲しいことなんです(たとえそうだとしても、怒りの矛先を僕に向けるのはやっぱりお門違いだと思うけど)。客観的に見ればそうかも知れないけど、彼らからそうした形で切断されると、僕は帰属する世界がなくなってしまうような気がする。また十代の頃の「トニオ・クレーゲル」に戻ってしまうというか。
同じことは、文学の世界では何度も起こってるんだと思います。フローベールが「ボヴァリー夫人」を書いた時、世間は、ああいう芸術至上主義的な、高踏的な作家が、あんな田舎医者の愚かな妻の話を、しかも「外科医のメスさばきを思わせるような」あんな冷徹なやり方で書いてるんだから、さぞかし、シニカルな気分だったんだろうと想像したと思うけど、ご存じの通り、彼は風俗壊乱罪で訴えられた法廷で、「ホヴァリー夫人は私だ」と証言している。僕はこれは、本音だと思う。日本の私小説的な風土の中では、珍しくもない告白だけど、フローベールが、とりわけあの作品の主人公についてそれを語ったというのがミソで、ムッシュ・ホヴァリーは、客観的に見ればなんにも責められるべきところのない当時の善良なブルジョワジーの典型のような人だけど、そういう人たちの住む19世紀後半のフランス社会にどうしても溶け込むことが出来なかったという意味で、エマとフローベールは、同じ人種だと思う。それでもやっぱり、当時のブルジョワ夫人たちは、共感というより、偉い作家が私たちのことをバカにしてるといって怒ったと思うんです。それが、フローベールの孤独だと思う。
それは、「最後の変身」や「顔のない裸体たち」を書いた僕にしても同じなんです。僕は別に引きこもりじゃないし、野外プレーの趣味もないけど(笑)、分かるんです、彼らのことが。だから、弱者に対する哀れみを抱くには、人の想像とは逆に、僕は彼らと距離が近すぎるんだと思う、多分。

>アタッチメント理論でいうところのセキュアベースの>ようなものが、のびのびと脱抑制された自己表現には>欠かせないということなのかな。

よく分かります。だけど、しつこいけど、ネットでこっそり書いて、あとでdiscloseという迂遠な道でもいいから、ブロガーには、リアルとネットとを分け隔てなく、自分の思いを語り合える人間関係を築いてもらいたいと思います。

なんか、最後はきれいにまとめてしまったけど、まぁ、そのうちまた、気が向いたらお邪魔しますわ。
ではでは

平野啓一郎

  hirano keiichiro on 2006/05/13

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はじめまして。いつも楽しく読ませていただいております。

今回はすごくレベルの高いお話を拝見させていただき、とても幸せな気持ちです。3回読んでようやく意味がつながる場所もあり、すごいな〜と感嘆するばかりでした。

「「見かけ」と「本質」」や「複数性」についてお2人がお話をされる中で、私が気になった点が2点あります。

「状況を越えて一貫した行動傾向が本当に存在するか」というパーソナル心理学の大きな命題(http://wwwsoc.nii.ac.jp/jspp/pub_news/news_14/news14_02.html#2)ともう一つは「自分を生きられないと感じる日本人が多い」(出典:トランスパーソナル心理学入門http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061494651/250-3069075-1541835)
という問題です。 

日本ではWEBによって、この点に焦点が当たり、様々な問題が(あるのかないのか分かりませんが)顕在化するのではないかと思います。

新たな人間の本性の一面が浮かびあがるかもと思うと、わくわくすると同時にどきどきしますね。

また、ちょっと別の話ですが、私は江島さんが書かれている、バックアップ論は幾分欧米人的な発想で、日本社会においては多少違った面もあると思います。

匿名という事が多くの日本人にとってはバックアップというほど遠い話ではないと思います。
それは本音とたてまえの社会で生きる人間にとっては既に本質の一部ではないかと思うのです。

ですから、日本のWEBは日本語だというだけではない、独自のローカル文化を創る可能性もあるのではないかと思います。

まま、そんな自論はさておき、本当にレベルの高いお話ありがとうございました。
願わくば再度降臨をですが、それはあまり過度に期待しない事にして♪

  ふくちゃん on 2006/05/13

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